当事者不在の文章を書かないめの縛りプレイ

 

書いた人が見えてこない文章というものがあります。いかにも「書かされている」といった感じのもの。書いている人も、読んでいる方も苦痛を感じる。

まあ、本当に書かされているのかどうかの真相は誰にもわかりませんが、そういう風に感じさせないような文章を書くにはどうしたらいいのだろう? ということを考えました。

形容詞は禁断の薬

いきなりですが、自分が何かを感じたとき、それを人に伝えようとして、人は往々にして「すごい」とか「美味しい」とか「こわい」とか「やばい」といった形容詞を使ってしまいます。

でも、形容詞って、禁断の薬なんですよね。

形容詞は人を堕落させる、と言っても過言ではないでしょう。

手っ取り早く何かを伝えられるようでいて、その実、何も伝えてはくれていない。

たとえば、観光地などに行って、これまで見たことのないような絶景を目の当たりにして、写真に収め、SNSなどで紹介したとします。そして、写真に添えた文章で「とっても美しい風景でした」と書いてみたとします。

「美しい」という形容詞は単に、「目や耳などで得られた感覚が“快”である」ことを示すだけのものに過ぎません。美の基準が時代や地域によって、いくらでも変化しうることはよく知られています。

だから、「美しい」は、どこまで行っても、ほかでもない、あなたが、その時、その場所でなければ得られなかった個別の体験を表すことができるわけではありません。

「美しい」と言うから「美しさ」が伝わらない

その書き込みを見た人が得られるのは、その写真を見ることによって、自分の内面に引き起こされる“快”の感情でしかないわけです。

つまり、いくら写真に文章を添えたところで、「美しい」としか書かないのであれば、見る人は自分の「美しい」の枠からはみ出す経験が得られない。そこにあなたは存在せず、存在するのは単なる「情報」と、目にした人の二者のみになってしまいます。

そういった表現を「書いた人が見えてこない」というのではないでしょうか。

皮肉なことに、あなたが感じた「美しさ」を表現するのに、最も遠いのが「美しい」という語なのです。

あえて、形容詞を封印する

そのような「作者不在」の単なる「情報伝達」、「報告」におちいることを防ぐためには、あえて形容詞を一切使わないで文章を書いてみる、という練習が効果的なのではないかと考えます。

“美しい”風景を見てきたのであれば、あえて「美しい」を封印して

「この風景を目にしたとき、わたしは後悔した。これから先、二度とここを上回る風景には出会えないだろうことを確信したからだ。まだ人生の折り返し地点も迎えていない今ではなく、人生の終わりが近づいたときに出会いたい風景だった……」

という具合です。まあ、ちょっと誇張が過ぎるかもしれませんが……

“美味しい”食べ物を食べたときには「美味しい」を封印して

「舌が200bpmを超える速度でビートを刻み、『早く寄越せ』と言わんばかりに食道が普段の30倍の速度で蠕動したのであった」

などと、動詞を使った表現にしてみるなど(いま即興で思いついた表現なので、巧拙は不問にしてくださいね)です。

俳句や漢詩の例を持ち出すまでもなく、あえて制約を設け、その枠の中でできる限りのことをするのが、自由な表現を自らのものにする近道なのではないかと考えたのでした。

(ちなみに、今回のブログ記事は一切形容詞を使わずに書いています)