もっと書くことが上手くなりたい岡本です。
先日、栗原院長と熊谷総合病院に行ったときに、自己表現の話になりました。
書ける人、書けない人
文章によって自分の内面にあるナニカを外に出すこと。(かならずしも文章でなくてもよいのですが)
できる人にとっては息をするようにできてしまうことですが、「できない」と思っている人にとっては大きな苦しみをともなうものです。
上で「できる人」と書きましたが、ここでの「できる」というのは、そんなに身構えるほどの水準ではありません。
表現を受け取る人に「涙を流させる」とか「大笑いさせる」とか、心が激しく揺さぶられる体験を引き起こすものではありません。ただただ、自身の内面にあるものを、何らかの形をともなって、他の人に伝えられる、というくらいの意味であって、巧拙を問うものではありません。
このように書いている自分自身が、それをできているかと問われれば、まあ、上に書いたように「レベルを問わないのであればそれほど困難はない」。といえるでしょう。現にこうして文章を書いています。しかし、一歩進んで自分が満足する水準のもの、あるいは人の心を打つようなものが書けているかというと、果たしてそのようなものが過去に何本あっただろうか……というくらいです。それでも仕方ありませんので、書き続けるしかありません。
いつも疑問に思うのですが、人間というのは一日のうち、起きている時間をほとんど何らかの考え事をして生きているわけです。それをすべて言語化すれば、一体何十万文字の文章になるのでしょうか。それなのに、いざ何かを書いてみようとすると手が止まってしまう、という人は少なくありません。400字書くことすら苦しい。
あるいは、考えるということの簡単さ(何しろ、私たちは思考を止めることができず、次から次へと湧き上がる思考に翻弄されているのですから)と比べて、思考の内容を整理して書くという行為があまりにも煩雑であるという理由もあるでしょう。
心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば?
その煩雑さを乗り越えたいのであれば、
「誰にも見せないことを前提に、自分自身で一切フィルターをかけずに、ひたすら浮かんできたことだけを書く」
ということをしてみるのもひとつの手だと思います。
ノートやPCなどを広げて、本当に、頭に浮かんでくることを、片端から書きまくっていきます。
「腹減った」とか、「モテたい」とか、「○○して△△して、■■で✕✕してしまいたい」とか。
そのうちに、心の奥に潜んでいる薄暗いどろどろしたものも浮かび上がってくるはずです。どんなひどいこと、突拍子もないこと、脈絡のないこと、人が読んだら震え上がるような反社会的なことを書いてもいいのです。人に見せるものではないのですから。(書いたノートなりファイルなりの管理は慎重にしたほうがいいですが)
キーボードを叩く指が、あるいは、ペンを握る手が追いつかなくなるくらいに、書かなければならないことが出くるでしょう。
書くことの練習は、この「誰にも見せずに、ひたすらに浮かんでくることを書きまくる」というところから始めてみてはどうでしょうか。わたしも、たまにそういうことをやっています。
もちろん、誰かに見せるとなれば、人権や儀礼といった社会的な要請に従って体裁を整える必要が出てきますが、自分自身で書くだけであれば、そういった一切の制約から自由でいられます。
歌の練習をする前に声そのものが出なければ話にならないのと同じで、とにもかくにも身体の外に出す、という経験こそが必要なのではないか、と考えています。