岡本です。副院長です。
養気院にご通院の皆様ならご存知のとおり、鍼灸師というのは心が美しい人たちばかりなので、「苦しんでいる方の力になりたい」「患者さんの笑顔が見られると嬉しい」という方ばかりです。
もちろんわたしもこの地球上で有数の美しい心を持っているからこそこの仕事に就いたわけですが、よせばいいのに、ときどきふと天の邪鬼なことを考えるクセがあって、「患者さんに喜んでもらう、感謝されることが仕事をするときの喜びであるならば、喜んでもらえない、感謝されないのならばその仕事に価値を感じなくなってしまうのだろうか」ということを考えていました。
「ありがとう」と言ってもらえる仕事の方が少ない
世の中で、自分の職務を果たして感謝されるのは、大部分がその仕事の受益者と直接の接触がある業務です。文字通り「サービス業」です。
しかし、それはまさに氷山の一角で、世の中の大部分の仕事は受益者から感謝されることなく動いています。
税務署の職員が真面目に仕事に取り組み、脱税を暴きに来ても嫌がられるだけですし、水道局の人がきれいな水を作ってくれたり、発電所の人が電気を作ってくれるからといって、水道局や電力会社にお礼の手紙を書く人はいません。
広い意味でのサービス業のひとつとして、患者さんに感謝されなければ、喜んでもらえなければ、経営に行き詰まり、廃業に追いやられてしまうのが鍼灸師です。患者さんからの感謝、好評を得ることは必要です。しかし、おそらくそれだけではどこかで行き詰まりを感じることになるのでしょう。
感謝が欲しくて仕事をすることは、自由を失うということ
他者からの感謝を得るということは、究極的には自分ではどうしようもできません。こちらがいい仕事ができたと思っても、喜んでくれない人もいるし、喜んでいるのかどうか表向きには読み取れない人もいます。人からの感謝のためだけに仕事をしているというのは、ある意味での支配を受けることになりかねません。一番喜んでもらえるのは「無料奉仕」ですから。
そうではなくて、「ツボが一瞬で見つけられた」とか「施術が終わるまでに鍼を10本打っていたのが5本で済んだ」などのように、自分の中に基準があって、自分で達成が判断できる喜びの種がなければ、10年は続けられても、数十年続けることは苦しくなってくるのではないかと思います。
いつまでもついてくる「慣れ」の罠
鍼灸という仕事は、マニュアル化が難しいようでいて、単純作業化はそれほど難しくない、という矛盾した面があります。
マニュアル化の難しさというのは、患者さんの個人差をどれだけみるかということで、同じ人でも日によって違っている状態を見極め、適切な場所に適切な刺激を入力することの難しさです。言うまでもなく、養気院はここを追究する鍼灸院です。
一方で、単純作業化とは、そういう個体差を無視して、「肩こりの人にはここ、腰痛の人にはここに鍼を打つ」という風に一律に決めてしまうことです。人の育成は簡単になりますし、多店舗展開も容易になります。
後者の人員として生きるなら、ひたすらに「慣れ」で回していくことはできますし、食べていけます。
わたしは、そうなってしまうことが恐ろしくて、いろいろと道を探しているうちに栗原院長に出会い、今こうして養気院で働いています。あと半年ほどすれば、養気院で丸3年を過ごしたことになりますが、(ありがたいことに)安定して成果が出せるようになってくると、次の「慣れ」の罠が見えてきます。いつまでも、解放されることはないのです。
今回ここで書いたようなことは、本当は別に考えなくていい問題です。感謝されようがされまいが、ほとんどの人は今日のご飯を食べるために、子供を育てるために、今ここではない目標のために、仕事をしています。喜びとかやりがいとかは二の次です。それでも、人は何かができるようになると次のことを考えてしまう生き物です。
本当は、「鍼をした」「喜んでもらえた」「やった!嬉しい!」
くらいのことを目指して鍼灸師になったのに、それができるようになったら、それ以上が必要になってくる。
大人になることの哀しさを噛み締めつつ、こんな文章を書いてしまったのでした。