鍼を心から楽しむ者だけが見られる景色

岡本です(写真左)。

もう、だいぶ時間が経ってしまいましたが、去る7月11日(日)に、「整動鍼百連」という鍼の体験会を開催しました。鍼灸師と鍼灸学生を主な対象として、栗原が創案した「整動鍼」の技術を体験してもらうことが目的でした。

実は、昨年に無料体験イベントとして「整動鍼体験会」を開催する予定だったのですが、緊急事態宣言によって中止を余儀なくされたものを、形を変えて実施したのです。この「整動鍼体験会」の定員は30人ほどでしたが、今回は「百連」という名前のとおり、定員を100人に増やしました。

感染対策のための入れ替え制の実施、1日で100人を施術するための動線のデザイン、スタッフの配置など、イベントの計画・実行という面でも多くの経験を積むことができ、チームとしての力が一段階レベルアップしたことを感じています。

「百連」はトラブルもなく、成功裏に終えることができました。社内のスタッフや応援にかけつけてくれた整動協会の大島さん、そしてスムーズな運営に協力してくださった参加者の皆さんのおかげです。改めてここでお礼申し上げます。

さて、疲れも見せずに100人の施術を終えた栗原を見ていて感じたのは、この人にとって、鍼は「遊び」のひとつなのだろうな、ということでした。

誤解を招かないよう説明すると、ここでいう「遊び」というのは、「遊び半分」とか「あんたにとって私は遊びだったのね」などの言葉で表されるような「物事に適当に取り組む」とか「不誠実なことをする」といった、マイナスの意味ではありません。そうではなくて、「純粋にその行為に没頭し、楽しむことのできる境地にある」という意味です。鬼ごっこをする子供が、それが遊びだとわかっていながら損得計算も何もなく、その瞬間に全力を傾けているような。

たとえば、哲学者の永井均が、『子どものための哲学対話』(講談社文庫)という本で、こう書いています。

ネアカな人や上品な人はちがうよ。そんなものなしに、未来の遊びのための準備それ自体を、現在の遊びにしちゃうことができるんだよ。他人のための奉仕それ自体を、自分の娯楽にしちゃうことだってできるさ。

永井氏はこの本で、勉強をしたり仕事をしたりすることを、「未来の遊びのための準備」と呼んでいます。普通の人は、何らかの目的を達成するために、ときに我慢をして勉強や仕事といった手段によって「準備」に取り組むわけです。一方で、それ自体を現在の遊びとして楽しむことのできる人を、「ネアカ(根が明るい)」「上品」な人と呼んでいます。

普段、養気院で栗原を見ていると、猛烈に忙しくていろいろなものを背負っているのですが、いつもニコニコしていて楽しそうです。もちろん、経営者として、院長として、スタッフの前で疲れた顔をしたり、不機嫌な顔を見せるわけにはいけないという部分もあるはずです。しかし、無理をして作り笑顔をしているわけではなさそうです(演じているとしたらすごい演技力ですが)。

「ネアカ」な栗原院長

「100人連続で施術してみたい」などと考えたりしない、“まともな”鍼灸師は、患者さんを良くする「ために」鍼をします。そして、良くなれば嬉しいし、良くならなければときに悩み、落ち込んだりします。つまり、結果にこだわります。「とらわれる」と言ってもいいかもしれません。患者さんは結果を求めて鍼灸院に来られるので、その期待に応えたい鍼灸師が結果にとらわれるのは、当然のことではあります。

しかし、鍼灸師なら共感していただけると思いますが、結果にとらわれればとらわれるほどに視野は狭くなり、無駄に打つ鍼が増え、あんなに頑張ったにもかかわらず結局結果は出なかった、ということが珍しくありません。

栗原を見ていると「鍼をして、身体に変化が起こる」というプロセスそのものを楽しんでいるように見えます。鍼が身体に入れば、身体は必ず反応して変化するので、「鍼をする→変化する」という過程は、生きている人間を相手にする限り、必ず起こります。

そのような変化を自分の狙ったところで起こせるという確信があり、それによって起こる身体の不思議を楽しんでいる。患者さんが持つ症状が治る、苦しみが消える、というのはその結果として自然に起こってくるものであり、自分が「治す」ものではない。

だから、理想通りの結果が出なかったとしても、そこに過度にひきずられることがない。

「理想通りの結果が出なかったとしても」と書いてしまいましたが、ほとんどの場合、きちんと結果は出ています。でなければ、20年近くも治療院を経営することはできませんし、技術セミナーを満席にすることもできません。

「ひきずられない」というのは、決して「患者さんのことなどどうでもいい」と突き放しているということではなく、「今このときに自分にできるのはここまで」という境界線が見えているということです。その上で、気持ちはあくまでも患者さんに寄り添う、という、「 cool head but warm heart 」(「冷静な頭脳と、暖かな心」)を備えることで、自身の心の健康を保てているのでしょう。「天命を待つための人事は尽くせている」という確信がある、ともいえます。

「結果を出すことを目的としつつも、結果にとらわれない。そうすれば自ずと結果はついてくる」

という、矛盾した境地に身を置いているのではないかと思われるのです。

論語にも「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」という言葉があります。知識がある(だけの)人は、好きでやっている人には及ばないし、好きでやっている人は、楽しんで取り組んでいる人にはかなわない、という意味です。

 

では、わたしは自身はどうか?

好きで鍼灸師をやっているはずですが、いつもいつも楽しいかというと……どうでしょう。そのあたりはこれを読んでいるみなさんと同じだと思います。ただ、それなりの時間を鍼灸師として過ごしてくると、「ああ、やっててよかったな。楽しいな」と思える時間は少しずつ増えてきていることを実感します。

では、あとどれくらい経てば、常楽の境地にたどり着けるでしょうか。まあ、「あとどれくらい」と考えるような下心がなくならないうちは、難しそうですが。