リレーブログ① 栗原 今のところ、鍼灸がいちばん長続きしている遊び

院長の栗原です。

院内で面白い企画が始まりました。「ブログのお題をバトンとして渡す」というもの。副院長の岡本の提案です。これは面白いということで、1秒でOKしました。文章というのものは、書くことに慣れている人にとっては何でもないことですが、書き慣れていない人にとっては、まずどんなテーマで書いてよいのかわかりません。

この企画は、書き手が感じる最初のハードルを取っ払って上げる親切な企画と言えますし、お題を強制するパワハラともとれる企画です。もしかしたら「鍼灸師は施術が上手ければ十分で、書く必要がどこにあるの?」なんて思われるかもしれませんね。実際は、書く能力が高い鍼灸師に患者さんは集まります。

書く能力が高いということは、

①考える力がある

②わかりやすい説明できる

③言葉選びが上手い

②と③は区別が分かりにくいと思いますが、②は理解力と整理力があるという話で、③は言ってはいけないNGワードを使わないといった状況に合わせた言葉を使える能力のことです。言い換えると、相手を意識できる能力です。

①~③は、鍼灸施術においても必要な能力です。ただ、きっかけがないと鍛えられないので、筋トレと同じように、上手に褒めてくれる人が必要です。私自身、国語の教師に文章を褒められたことがきっかけで書くことが好きになりました。

では、行きましょう。

私が副院長からもらったテーマは「友達について」です。ただ、タイトルが「友達について」では誰も読んでくれそうにないので、院長権限でテーマから外れなければ変えてよいことにしました。

 

キャプテン翼

「友達」と聞いて、もっとも印象的なフレーズは「ボールは友達」です。そう、あのキャプテン翼です。初めて聞いたのは小学生でした。日向小次郎のシュートをわざと顔面で受けて、ボールは怖くないことを森崎くんに伝えたのです。

キャプテン翼の小学生編だった時代、私も小学生だったので、翼くんの影響をそのまんま受けました。休み時間になると、みんな校庭に出てサッカーをやっていました。同じフィールドに各学年と各クラスが入り乱れているものだから、カオスでした。10分間の即席チームなので、チームプレーも戦略もなく、ただボールを追いかけてゴールに蹴り込むだけでした。

「そんなのサッカーじゃねぇよ」と、思いながらもキャプテン翼の影響力が強すぎて、昼休みはカオスの一員を担っていました。私が夢中になっていたのはサッカーではなく、ラジコンでした。

タミヤのラジコンブーム

1980年代、タミヤが1/10スケールのラジコンカーを怒濤のごとく売り出して、空前絶後のラジコンブームでした。『コロコロコミック』では、『ラジコンボーイ』が連載されかなりハマっていました。

毎週発刊される『少年ジャンプ』は買ってもらえず、買えるだけのお小遣いももらっていなかったので、仕方なく月刊の『コロコロコミック』がバイブルだったのです。

私がホーネットを買ってもらったのは、小学三年生のクリスマスです。当時はネット通販なんて便利なものはなかったので、おもちゃ屋さんに連れて行ってもらうしかありませんでした。カレンダーを毎日眺めながら、その日が来るのを待っていました。たしか、本体が9,800円で、1万円弱くらいの操縦機が別売りだったと記憶しています。当時としては、かなり高額な買い物でした。半年くらい待ってようやく手に入れた愛車でした。

私が購入すると、次々にクラスの友達も買い始めました。どこに行くにも自転車のカゴにラジコンを入れていました。だんだんエスカレートしていき、家の畑にラジコンコースをつくったりしました。一時期、地元小学校のトレンドリーダーでした。一瞬だけね。

ただ、とてもストイックな遊びでもありました。なぜなら、バッテリーが10分程度しか持たないからです。友達と合流して、一緒に遊べるのはたった10分。ストイックな遊びだったのです。「予備バッテリーを買えばいいじゃん」って思うかもしれませんが、数千円したので買ってもらえなかったのです。親の論理は「10分も遊べるのだから、どこが問題?」というもので、懇願が完全に無視されてしまいました。

子供に数万円のおもちゃを与えるのは贅沢であり教育上よくないと考えていたのかもしれません。全国的にそうだったのかわかりませんが、ラジコンブームは数年で終わりを迎えたのです。そして、ミニ四駆に時代は移っていきます。そして、私は中学生に。ラジコンもミニ四駆も完全に卒業でした。

 

インドアに転向した中学生

中学生になって手にしたのが、NECのPC-98。ゲームをするくらいならと買ってもらったパソコンです。まだ、Windowsが出現する前です。20万円は軽く超えていたと記憶しているので、中学生に買い与えるものとしてはかなり高価です。友達は、ゲーム機にハマっています。PCエンジン、スーパーファミコン、ゲームボーイの時代です。私は、ひとりパソコンでシミュレーションゲームです。中学生は、一人で遊ぶことが多かったです。

もっともハマったのが「シュヴァルツシルト」。異常な難しさで攻略不可能かと思ったゲームでしたが、何とか攻略しました。あまりに嬉しくて涙が出そうになりました。YouTubeで発見したこの動画に感動しています。

スキー場で出会ったTくん

子供の頃は友達といえば、クラスメイトでした。同じ学年でもクラスが変わると遊ばなくなるという、クラス単位のコミュニティに支配されていました。今思えば、すごく狭いですが、当時はそんなことを思っていませんでした。

なんだかんだ、中学生、高校生も似たようなものでした。高校生はあまり記憶がないので飛ばします。

大学生になると、自分から友達をつくりに行かないと友達ができない環境を初めて経験しました。大学時代、一緒に勉強した仲間とも友達になりましたが、スキーがきっかけで親友ができました。Tくんと出会ったのはスキー場。大学の冬休みを利用したスキーインストラクターのアルバイトで出会ったのです。Tくんは、別の大学に通う一つ年上でした。

彼と話す内容はスキーと女性。この2つの話題だけでほぼ100%に達してしまいます。モテることしか考えていない、単純で健全な男子だったわけです。しかし、努力してもモテ男には及ばず、コンプレックスを互いになめ合う関係を築いていたのです。

彼は、大企業に就職しました。私は、鍼灸学校へ入学。それぞれスキーに夢中になれる時期でなくなり、彼は関西に住まいを移してしまったこともあり、少しずつ離れていきました。仲が悪くなったとか、喧嘩したとかそういうこともなく、ただただ、それぞれの人生のを歩み始めたのです。

 

「強敵」と書いて「とも」と読む

大学卒業と同時に鍼灸師になるため、鍼灸の専門学校に入りました。鍼灸師になって鍼灸で食べていける人は一握りであると聞いていたので、周りがみんなライバルに見えました。この中で食べていけるのは3人くらいかなぁ、なんて思っていました。

『北斗の拳』では、「強敵」は「とも」と読みます。実力を認め合う関係です。ライバル心をバチバチさせていた私は、北斗の拳モードに入ってしまいました。「やるじゃないか!」と思う人と積極的に交流を持とうとしました。鍼灸という世界で生き残っていくために、緊張感を伴って交友していたように思います。

この時期、私の才能を認めてくれる人がたくさん現れました。そのおかげで、私は人生で初めて自信というものを感じることができました。

 

趣味が続かない

社会人になると食べていくことに必死になり、趣味としていたスキーを断念しました。同時にTくんとも疎遠になってしまいました。スキーの代わりに始めたレーシングカートも、会社の設立時にやめてしまいました。たったの1年間でした。仲良くなりかけた人がいましたが、友人にはなれませんでした。

趣味と同時に交友関係が途切れてしまいます。そして、友達のいない人生に突入していきます。寂しい展開の始まりです。

 

利害関係のない間柄

友達のいない人生は寂しいのかもしれませんが、不思議と寂しさを感じることはありませんでした。鍼灸に夢中になっていたからだと思います。だから、鍼灸を取り上げられたら、ものすごい寂しさが込み上げてくるのかもしれません。

友達を「遊ぶ相手」と解釈するならば、今は仕事が楽しいですし、仕事の仲間と過ごすことは、遊びのような楽しさを感じます。

シミュレーションゲームが好きだった私にとって、鍼灸院を経営したりセミナーを運営することはゲームの延長です。人が生き死にするリアルな世界をゲームに置き換えることに不快感を覚える人もいらっしゃると思います。

このたいへんな時期をゲームと混同するなと叱られてしまうかもしれません。でも、こういうたいへんな時期こそ俯瞰する能力が必要だと考えています。

「三国志」で疫病の流行やイナゴの飛来を経験した私は、「こういう時もあるよね」と冷静な自分を見つけられます。

話はそれましたが、遊ぶ相手は、現状が十分に楽しく満足しているので求めていません。私がもっとも必要としているは理解者です。お金が足りないと経営者は悩みますが、孤独感は経営者を追い込みます。だから、私は理解される人間でありたいと常日頃思っています。

 

損得を気にせず時間を忘れる関係

「友達について」というお題を出され、これまでの人生を振り返ることになりました。損得を気にせず、時間を忘れて付き合える人が友達ですが、そういう人が現れるから損得を気にせず、時間を忘れるのか、損得を気にせず時間を忘れた時に現れるのか、どっちなのでしょうか。