群馬の山上から宇宙を旅する(ぐんま展望台)

岡本です。

先日、「群馬県立ぐんま天文台」というところに星を見に行ってきました。

前々から群馬には天文台があるということを知っていたので「行ってみたいなあ」と思いつつもグダグダしていたのですが、寒くなる前に行ってしまおうと思い、えいやと思って観望を予約してしまいました

天文台は伊香保温泉から車で30分ほど北に走ったあたり、吾妻郡高山村の山の上にあります。

わたしと天文の(あまり濃くない)かかわり

わたしは幼少期を兵庫県で過ごしました。兵庫県には日本標準時を定める東経135度の子午線が走っており、県内の各所にモニュメントが立っています。

西脇市という市は東経135度と北緯35度が交わっていることを売りにして、「日本のへそ」を自称しています。

自分が住んでいた市にも子午線が走っていて、小学校にも子午線が通っていたことから、夏には「子午線まつり」という盆踊り的フェスティバルが開催され、よくわからないまま遊びに興じていたのでした。小さい頃に行った地域の盆踊り大会って何であんなに楽しかったのでしょうか。

ついついお国自慢をしてしまいましたが、われらが群馬県の渋川市も「日本のへそ」を自称しております。市のサイトを見てみますと、このような記述があります。

日本の主要四島で最北端の北海道宗谷岬と最南端の鹿児島県佐多岬を円で結んだ中心に渋川市が位置しているため、「日本のまんなか」と言われています。

実際の「日本」は、多数の諸島や列島を含みますが、大きくてイメージしやすい主要四島の南北を結んでいます

「『大きくてイメージしやすい』からといって、諸島や列島を除外して勝手に中心を定めてしまっていいものなのだろうか。沖縄の方たちの気持ちはどうなるのか」

という疑問が頭をよぎるのは、兵庫県の肩を持ちたくなるわたしの無意識の故郷愛によるものでしょうか。

あまり関係が深くない兵庫県と群馬県ですが、まさかこのような形の対立軸があるとは。

将来、真の日本のへその座を巡って両県が泥沼の闘争を繰り広げるようなことになったら、わたしはどちらの側に立てばよいのか。

調べてみると、兵庫と群馬以外にも「日本のへそ」を標榜している県があり、へその群雄割拠の様相を呈するわが日本国。各県が敵対することなく平和裏に共存してくれることを願ってやみません。

わたしの天文原体験

本邦の平和を祈願したところで話を天文に寄せていきます。

兵庫県には他にも子午線の通っている「明石(あかし)市」という街があります。漁港としても有名で、明石ダコや明石鯛が有名です。

わたしの父は魚を買ってきてさばいて食べるのが好きな人で、休みになるとよく明石に連れていってもらいました。

その明石には「明石市立天文科学館」という施設がありまして、これまた子午線上に建てられている施設です。日本標準時の基準になっていることを誇るかのように、大きな時計台が目印になっています。阪神大震災のときには、この時計が震災発生時刻を指したまま止まってしまいました。

明石市立天文科学館の公式サイトから

わたしの天文原体験は、この明石市立天文科学館だったと記憶しています。親に連れていってもらい、そこで人生で初めてプラネタリウムというものを体験し、宇宙の有様に触れました。

そのプラネタリウムで見たのだったか、ギリシア神話の星にまつわる話がとてもおもしろく、自分でもギリシア神話の本を読んだりして、本当にそういうことがあったのだと信じたりもしていました。「人は死ぬと星になるのか」「なぜ神様は人を星にするのだろう」などと素朴に思っていたものです。

しかし、大部分の子供がそうであるように、星に対して異常なまでの興味と熱意をもって学びまくり、NASAに入って宇宙飛行士になることはありませんでした。天体望遠鏡なんかも買ってもらっていましたが、とうとうまとも使い方はわからずじまいで、「なんとなく宇宙が好きかな」というくらいの大人になっていきました。

それでも宇宙への興味はそれなりにあるものですから、小惑星探査機「はやぶさ」のニュースなどはワクワクして眺めていました。少し前にあった日食のときも、しっかり遮光板を用意して天文ショーを堪能していました。

大人になってからも、機会があれば科学館などに足を運んでプラネタリウムを鑑賞するという、趣味ともいえない趣味であり続けています。

フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン・フロム群馬

思い出話はここまでにして、群馬に戻ってくることにしましょう。

今回訪れた群馬県立ぐんま天文台にはプラネタリウムの設備はなく、業務用(?)の大きな天体望遠鏡を備えたドームが2基あります。

係員の方に導かれつつ望遠鏡のレンズを覗きました。その日は朝から降水確率0%の快晴で、夜空も見事に晴れ渡っていました。係員の方は「月がまぶしくてジャマ」ともおっしゃっていました。

木星、火星など、いくつかの惑星を見せてもらい、月も見せてもらいました。本来ならこの望遠鏡は何万光年も先の天体を観測するためのもので、惑星や月を観るにはオーバースペックなのだそうです。クレヨンしんちゃんを見るために4Kテレビを導入するようなものでしょうか。

レンズの向こうに浮かんでいる星。

眩しい光が目に差し込んできます。太陽の光を反射して、惑星がギラギラ光っているのです。月は肉眼で見るとツルッとしていますが、望遠鏡によって至近距離から見てみると、光と影の境目はクレーターの凹凸によってギザギザしたノコギリのような線を描いていました。

このとき、確かにわたしの目だけは38万キロの彼方の宇宙空間に飛んでいました。

つかの間の天上世界の旅から帰ってくると、「天文台の人はやはり夜勤が多くて大変なのだろうか?」とか「天文学でご飯を食べるというのは相当に難しいだろうな」などと、とたんに穢土の泥にまみれた疑問で頭が埋め尽くされてしまうのでした。

天文台を出ると、空には一面の星。写真になど収められるはずもありません。

「あれはカシオペア座で、あれが北極星かな?」などと、乏しい知識を動員して、しばしの間、天を見上げてから帰路についたのでした。

宇宙の使い方

本を読んだりプラネタリウムを鑑賞したり、今回のように実際に星を見たりしていると、いつも感じるのは「本当に自分というのは宇宙のチリのようなもので、何かのはずみでふと現れてきて、一瞬で消え去っていく存在なのだな」ということです。

知ってはいるのにすぐに忘れてしまって、目の前の人生にはまり込んでしまうから始末におえません。

自分がただの宇宙のチリ(未満の存在)に過ぎないこと、そして「いつか消えてしまう宇宙のチリなのだからこそ、どんな風に生きてもかまわないのだ」と、一周回って妙なポジティブシンキングになれる、それが自分にとっての宇宙の使い方なのでした。